シャボン玉の歌(4)
前回の続きとなります。
仏教の世界では、0歳~6歳で亡くなった幼子は、三途の川を渡らせてもらえないといいます。
つまりあの世には行けません。たとえ「間引きされた子」であったとしても。
親孝行せずに死んだこと自体が、罪に当たるそうなのです。
その代わりに、そういう幼子たちは、三途の川の手前にある「賽の河原」に連れていかれます。
そこで父母の供養をするように命じられ、幼子らは「一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため」と、河原で拾った石を積み上げて塔を作り始めます。
ところが塔が完成しそうになると、地獄の鬼がやってきて、石塔を崩してしまいます。
積んでは崩され、再び積んでは崩される。絶望しかない地獄の日々が延々と続いていくのだそうです。
そういった仏教的な世界観から人生を眺めてみると、この世に生を受けた人間が最初に通過する運命という名の振り分けは、
①小学生まで生き延びる
それ以外は、
②賽の河原行き、
ということになります。
冒頭に登場した「てめー、こら、ぶっ殺すぞぉー、おらっ」の輩は、そういった意味では、①前者に振り分けられた者になります。
地面にうずくまっていた被害者の方も、もちろん前者。そして私も、これを読んでくださっているあなた様も、前者です。
我々は、野口雨情の言葉を借りれば、「飛ばずに消えたシャボン玉」ではなく、「屋根に向かって飛び立ったシャボン玉」なのです。
どうして、「生まれてすぐに、壊れて消える」こともなく、この世に無事に飛び立てたというのに、同じく無事に飛び立てた同士を大切に思えないのでしょうか?
街中で喧嘩騒動の場面に遭遇する度に、また、中学生の自殺といった悲しいニュースを耳にするたびに、
「しゃぼん玉の歌」が、
頭の中で静かに響きます。