今年を振り返って2019(3)
前回の続きになります。
昔から、「大は小を兼ねる」と言われております。
しかし私は、大は大、小は小、だと考えています。
トイレと同じ(こらっ!)
例えば「アジの開き」って、小アジと大アジとでは、味がかなり違いますよね。
小アジは小アジの味がして、大アジは大アジの味がします。(全然説明になってない)
つまり同じアジでも、別の魚を食べている感覚だということです。
これを、都立高校入試に当てはめて言うならば、
都立高校を第一志望で受験する生徒にとって、
超難関私立高校の英文法正誤問題を解いたり、
日本史資料集の仏像名や人物名を全部覚えたり、
floccinaucinihilipilification(無意味なこと)という英単語を覚えることは、
全くとまでは言いませんが、完全に(同じだろ!)的外れな勉強だということです。
上記ほど極端ではなくとも、方向を誤った勉強法をとると、受験という戦場に丸腰で突っ込むことになります。待っているのは、犬死。
誰より一番辛いのは、本人です。正々堂々と挑んでいるのに、ほとんど結果が伴わないのだから。
仮に、あなたが「世界中の全ての紛争を解決し、人類に慈愛と平和に満ちた世界をもたらす救世主になれる才能」を持っていたとしても、今の社会では「テストという関所」を要領よく越えられないと、高校や大学といった次なるステップに進めません。
そして最悪の場合、そのまま低賃金労働という負の連鎖に引き込まれ、“貧困”という“チンピラ”に振り回され続けます。
貧困というと、「若い時に努力しなかったからだ。自己責任だ。」と突き放す意見を、よくネット上では耳にします。
確かに、一定数の人間に対しては、そういう厳しい意見も当てはまるでしょう。
ただ、忘れてほしくないのは、真面目に生活を送りながらも、「努力が空回り」して貧困の連鎖に陥った人も、同じく一定数いるということです。
これは勉強の世界でも同じです。チャラチャラしてるくせにテストの点数が良い人間と、真面目だけど要領が悪くて点数がイマイチな人間がいるように。
可哀想なのは、もちろん後者。
私は、真面目な人が陥りやすい要領の悪い勉強を「空回りの努力」と呼んでいます。
これこそは、私が塾生に絶対させたくない愚行の筆頭。
それは、中高生時代の私自身が「空回りの努力」の達人だったからです。(続く)