活
大学受験生の必須アイテムとなる赤本が、いよいよ本格的に活動を開始する時期が迫ってきました。
赤本と言えば、各大学ごとに内容が異なるのは当然ですが、たった一つだけ、どの大学の赤本を眺めても共通する内容があります。
それは、一番最初のページにある「はしがき」。
毎年文面が変わるので、実は読むが楽しみだったりしています。最近の中で印象的なものは、2015年の「はしがき」でして、
― 最近少し気になっている言葉として「合格保証」「就活」「婚活」などがある。いずれも人生における各人の活動を単純にモデル化しハウツー化しようとしているように思われ、何か引っかかるものを感じる。普通はどれをとっても相当大変なことなのであるが、割合簡単に実現できるように見えるうえ、つい受け入れてしまいがちである。*中略あり
― 人は自分で努力や工夫をせず、他によって用意されたもので目標を達成してしまうと、遅かれ早かれ目標であったものはその価値を失い、色褪せてしまう。
「○活」という言葉が乱用される現状に対する警鐘と、受験という人生の一大イベントは、何より自分の力で切り開いてこそ意味がある!という熱いメッセージが感じられました。
初めて読んだ時は、大きな衝撃でした。
時は流れて、2017年の赤本が書店に並ぶようになった今日、「終活」という言葉を耳にするようになりました。
「終活」とは、自身の死後に、残された家族が相続やら墓場やらの問題で困らないように、本人自らが事前準備をしておく活動のことです。
「人間は、死ぬことを考えて生きているのではない。生きることを考えて生きているのだ。ただ、結果としての死があるだけだ。その結果だって、ゴールでもなければ、目的でもない。」
↑常日頃そう思っている私にとって、「終活」なんて言葉はちゃんちゃらタブーなのですが、残された家族の現実をしっかり直視するという点では、勇気が必要な行動だと高く評価しております。
ところが、この「終活」という言葉を初めて耳にした当時、私の思考は赤本を読んで衝撃を受けた時のまま停止しておりました。この「終活」というフレーズを、「就活」や「婚活」と同じような言葉の括りで考えてしまいました。
「なんだとー!サクッと簡単に死ぬ方法を、単純モデル化してハウツー化するのか!その内、意識高い系の終活とか登場しちゃうのか?世も末だ、まったく。」と憤慨しかけました。
今になって思うと、ひたすら恥ずかしい限りです、まったく。
ところで、エジプトのピラミッドですが、建造は王の生存中に始まりますので、これも一種の「終活」と言えるのでしょうか?「終活」は紀元前から存在?
こちらは「残された者のため」ではなく「自身の権力の象徴」であったり「死後の世界でも王であり続けるため」の準備活動です。目的が全く違いますね。
自分のためではなく、全てはお客様のうまいのために愛する家族のために。
「終活」という、ある意味しんみりしてしまう言葉から、現代人の心には、ピラミッドをはるかに凌ぐ壮大な「思いやり」が宿っていることに気付かされます。