前回の続きになります。

「空回りの努力」は、マジで怖いっすよ。

まずは洗脳から抜けられません。それは、自分が間違っていることを直視できないから。

中高生時代の私は、それなりに勉強を頑張っている方だったと思います。

しかし、些細なことで自分なりに理屈が納得できないと、そこから先へは進めない性格でした。

例えば、数学では「これは解き方を覚える問題だ」とか、英語では「これは丸暗記する問題だ」とか言われると、なぜ?が先行して、そこで思考がストップしていました。

今振り返って思うと、ちゃんちゃらおかしいのですが、当時はこれでも真剣でした。

そんな有り様でしたので、定期テストの点数は「一生懸命勉強した割には平均点前後」という、パッとしないものでした。

ぶっちゃけ教師の側から見ると、「真面目だけど、結局は点が取れない薄い存在」だったことと思います。

それでも私は、「勉強というものは、テストの点数よりも、その本質を知ることが大切だ!」

こんな青臭いことを本気で信じていました。しかしこれこそ、ある意味で自分が自分にかけていた洗脳かもしれません。

自分の不器用さを直視できない故に、高尚な理由付けを与えて、自分の置かれた現実をごまかすという愚かな行為に逃げていたのです。

私にとって現実は残酷でした。中3生になると、授業中に寝ていたり、今でいうスクールカーストの上位で調子に乗っている奴らの方が、テストの点数が良いという現実を見せつけられました。

高校生になってからも、それなりに勉強した割には、はなから勉強してない連中と大して変わらない試験結果を何回も見せつけられました。(得点分布表みたいなもので分かりました)

「自分はポンコツなんだ…。」だんだんと自分自身が”ミジンコ”のように思えてきました。

そのうち、「大学進学なんて、どだい無理か…」と思うようになり、勉強から離れ始めました。0点を取ったこともありました。

高校は卒業しましたが、

「卒業式だというけれど、なーにを卒業、するのだろう♪ by チェッカーズ」

という感じでした。

☆ ☆ ☆

今になって分かるのは、

勉強テストというものは、前述した小アジ大アジのように、ある意味で似て異なるものであるということ。

テストとは、「なぜこういう解法が存在するのか?」とか、「この熟語はどういう構造なのか?」といった学びの本質を問うものではありません。

既に存在する「解法や熟語」といった素材を「どう活用できるのか」を問うものなのです。当たり前と言えば、当たり前のことですが。

本質的な理解なんて、大学に入ってからいくらでも追及すればいいだけのこと。

でも、そういった事情は、後になってから気付いたことで、当時は知る由もありません。

私は「空回りの努力」の達人として右往左往を繰り返し、自身の愚行と正面から向かい合えるまで、普通の人と同じ土俵に立つことさえ、できませんでした。

☆ ☆ ☆

大学在学時、迷わず今の仕事を選んだのは、「空回りの努力」に苦しむ人の力になりたいと思ったからです。(続く)